伽羅通信

鎌倉十三仏巡り 三番札所 本覚寺

権威に屈せず熱烈な布教を展開した日蓮ゆかりの寺

鎌倉駅から大通りの信号をわたり、わずか数分で本覚寺の裏手門に到着します。広々した境内をみわたせば、参拝や法事に訪れる信者だけでなく、散歩や買い物の近道に利用したり、立ち話したりと、とても開放的な雰囲気。鎌倉時代に熱烈な布教活動を展開した日蓮ゆかりの寺は,今は街の暮らしにとけ込んで目の病に霊験あらたかな「日朝さま」の別称で親しまれています。この日蓮宗の古刹は十三仏巡拝の三番札所にあたりますが、どうして若宮大路にお尻をむけて建っているのか?素朴な疑問を感じながら、特別公開の本堂にあがりました。

鎌倉十三仏霊場 第三番札所「本覚寺」 ※写真の転載不可。
※写真は4月に撮影しました。

寺の原点は、日蓮が辻説法の拠点とした夷堂

江戸時代創建の仁王門(明治時代に移築)

江戸時代創建の仁王門

日蓮御分骨堂

日蓮御分骨堂

ゆったりとした本堂で、ご本尊の釈迦如来や文殊菩薩(宋帝王、三七日忌)に合掌し、ご住職の講話を拝聴しました。歴史をさかのぼれば、現在の山門付近に夷堂(えびすどう)とよばれるお堂があったそうです。頼朝が幕府の鬼門にあたる方向の鎮守として建てたとされ、天台宗系の施設でした。1274年に佐渡配流から帰った日蓮が一時、この夷堂に滞在し辻説法などの拠点としていました。時代が移り、1436年に日出(にっしゅつ)が日蓮ゆかりの夷堂を天台宗から日蓮宗に改め本覚寺を創建。そして第二世の日朝(にっちょう)が、総本山である身延山久遠寺(山梨)への参詣がむずかしい老人や女性のために、日蓮の遺骨を本覚寺に分骨。この由来により本覚寺が「東身延」と呼ばれるようになりました。そうした長い歴史を背負いながらも、本覚寺の境内が明るくのびのびした雰囲気で、格式張った閉鎖性を感じさせないのは、鎌倉時代から受け継いできた日蓮宗ならではの庶民性ではないかと思ったりしました。。

他宗派や幕府の排撃にひるまず、真正面から対決

倉・江の島七福神の一つ夷堂

倉・江の島七福神の一つ夷堂

日蓮は頼朝没後23年目に千葉小湊で誕生(1222年)しました。鎌倉で布教を開始した1254年には、尼将軍政子が健在で、政治の実権は北条一族ががっちりと把握。宗教界をみれば先行する鎌倉仏教各派が既に権威と権力を確立していました。日蓮はいわば遅れてやってきた新興宗派として、先行する各宗派との直接対決からスタートしなければなりませんでした。ちなみに、日蓮にとって一遍(時宗開祖)は17歳の年少。忍性(極楽寺/律宗)は5歳年長で、まさに同時代の空気を共有した間柄でした。当時の鎌倉は政治経済の中心地。武士や庶民で沸き返るにぎわいで、布教には最適なスポットだったのです。日蓮は法華経が真の仏教の教えであるとして、ここ小町大路(こまちおおじ)を中心に辻説法を行い、「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊(四箇格言)」と、他宗を厳しく批判しました。さらに『立正安国論』(1260年)を著し、北条時頼に提出。天変地異や疫病は邪宗を信仰するからであるとし、法華経を信じなければ「他国の侵攻も受ける」(蒙古襲来の予言)などと批判。また、鎌倉中の仏教徒を巻き込んだ忍性との雨乞い対決など、権威を恐れず批判を重ねます。他宗派や幕府は様々な手段で排斥しようとするものの、日蓮は迫害・流罪にもひるむことなく真正面から対抗。そのたくましい背中を見て育った弟子たちによって、室町期になると日蓮宗は日本の社会にしっかりと根づきました。

「日朝さま」の愛称で親しまれ、みどころの多い寺

その昔、若宮大路は八幡宮に向かう細い参道で、メインストリートは本覚寺や妙本寺が面している小町大路(別名辻説法通り。観光で賑わう小町通りとは別の道)だったそうです。道の両側には、幕府高官・有力御家人の屋敷が並び、大町四つ角から南部エリアは鎌倉きっての商業地区。国際貿易港だった和賀江島への流通経路として繁華を極めていました。日蓮の「辻説法」も、この小町大路で行われ記念碑が残されています。
ところで、ご住職によれば、本覚寺と聞かれてもわからない地元の方も、「日朝さま」といえばすぐわかるとか。由来は、日朝が目の病気を患った際に、法華経と自らの回復力で治癒したことからで、以来その愛称で親しまれています。日朝はまた、日蓮の再来とまでいわれるほど聡明だったそうです。
境内の建物の中でもっとも古いのは山門。若宮大路に向けて入り口を作ってはいけない規則があったため、小町大路に山門を向けているそうです。冒頭の疑問への答えはそういうことだったんですね。夷堂は、鎌倉七福神のひとりで、縁結びや商売繁盛の神様として多くの参拝客が訪れます。正月ともなると、福娘がお神酒をふるまう姿は鎌倉の風物詩となっています。刀工として有名な正宗の墓もあり、季節ともなるとシダレザクラやサルスベリの大樹がみごとに開花します。

没後も受け継がれる開祖日蓮の教え

境内には四季折々の花も

境内には四季折々の花も

「歴史にifはない」という言葉がありますが、あえて日蓮が存在しなかったらと想像すると、中世社会を明るく照らした鎌倉仏教の輝きは、少々薄れるのではないでしょうか。その活動は、実にダイナミックで不撓不屈という言葉がぴったり。あらゆる権威や権力に迎合することなく、法華経への信念を貫き通し、舌鋒鋭く説いてまわった活力は、敵対者にとっては脅威だったに違いありません。逆に、迫害され流罪にされても不死鳥のように鎌倉に舞い戻る日蓮は、たとえ異端扱いされようと、信仰する庶民や商人たちには何とも頼もしい存在だったことでしょう。1282年に60歳で没した後も、開祖日蓮が身をもって示した教えは、静かな街中の本覚寺に、しっかりと受け継がれています。

用語解説・資料

四箇格言
(しかのかくげん)

日蓮宗の宗祖日蓮が他の仏教宗派を批判した言葉。念仏無間、真言亡国、禅天魔、律国賊の四つをいいます。
【念仏無間】(ねんぶつむけん)
阿弥陀仏に執着する念仏宗の教えは、無間地獄の業。
【禅天魔】(ぜんてんま)
禅宗は仏教の中にも入らない天魔の説。
【真言亡国】(しんごんぼうこく)
真言宗は衆生救済の根本である仏と法を倒す教えであり、亡国の教え。
【律国賊】(りつこくぞく)
律僧は人心を惑わし、国を亡ぼす国賊。

忍性との雨乞い対決

同時代を生きた日蓮と忍性の対決はよく知られています。事の起こりは1271年。全国的な大干ばつが発生。当時の幕府と結びつき政治的影響力をもつ極楽寺の忍性(良観)が祈雨の法(雨乞い)を行うと聞き、日蓮は勝負を申し入れました。もし忍性が7日以内に雨を降らせたなら日蓮が弟子となり、雨を降らせる事が出来なかったならば忍性が日蓮の門下に入ると言う挑戦内容でした。結局雨は降りませんでしたが、この対決をきっかけとして、日蓮の権威を恐れない挑戦的な活動に対し様々な妨害や弾圧・迫害はさらに加速されました。

小町大路
(こまちおおじ)

小町大路は、鎌倉幕府の都市計画の中核となる「六大路」の一つ。若宮大路の東側を並行し、金沢街道の「筋替橋」が基点。ほぼ南向きに材木座海岸に向かっていました。本覚寺前で夷堂橋を渡り、大町四つ角で大町大路を横切り、魚町橋先の本興寺手前で車大路を横切り、乱れ橋を渡って材木座海岸にいたる鎌倉時代の基幹道路でした。材木座から左折すると光明寺門前を経て小坪坂を越え三浦方面に向かうことができました。

鎌倉十三仏霊場巡拝関連リンク

本覚寺(ほんがくじ)

住所

〒248-0006
鎌倉市小町1-12-12

電話番号

0467-22-0490

拝観時間

午前9時00分〜午後5時00分

拝観料

無料

アクセス

JR鎌倉駅東口徒歩3分

詳細

1436年に日出(にっしゅつ)によって創建。もともとの天台宗系の夷堂を日蓮宗に改め、本覚寺としました。二代目住持の日朝は、後に身延山久遠寺の住持になった際、かの地にあった日蓮の遺骨を本覚寺に分骨。身延に参詣することが難しい女性や老人のためであり、本覚寺が「東身延」と呼ばれるきっかけとなりました。眼の病気を治してくれる寺として知られ、「日朝さま」の愛称で親しまれています。日朝が眼の病気を患ったとき、法華経と自らの回復力によって治癒したというのがその由来。夷堂は、縁結びや商売繁盛の神様として知られています。

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